昭和51年4月3日    高山家霊祭   大坪かよこ



霊祭を奉仕させて頂く あの二、三十分前でした。私めったにあの客殿に行ったことがないしきりに客殿に行きたいと思うてやらせて頂いたら、あの、客殿の中の間にシヨウドウ先生の短冊が掛っとりますね。あの、あれをしきりに頂くんです。
あれにはどういう歌が書いてあるかというと、三千歳にいわゆる三千年に一度咲くという桃の花の春にあいそめて、会いそめたということが喜ばしいという意味のことが書いてあります。もう大変もう崩しに崩した字ですから、私どもが読めませんけれども、ま、大体そういうことが書いてあるようです。
三千年に一度しか咲かないという桃の花の咲く春に会いそめたということ。
私はそのことを思わして頂いたんですけれども、ほんとに合楽に御神縁を頂いておる人たちは、そういう感じが頂けれるところまで合楽を認識しなければいけないと思いますね。ね、これはもう、あらゆる、あらゆる角度から合楽を見て、または内容が分って、あのほんとにあの、それこそ大いなる世に生まれ合わせたことだ、そのなかにまた、合楽に御神縁を頂いておったということが素晴らしいことだということなんです。
私と今日の御霊様の出会いというのは、まだ椛目でようやく人が助かり出して、田主丸に五、六人のご信者があって、私が月に一度づつお話しにないりますと、田主丸の町の方達はもう、あの、あそこは秋山さんのお宅にもういっぱい入りきらんぐらいにありました。その時に始めて、高山のお父さんがあのお話を聞きに見えて、これはただの話じゃない、これが一番実感だったらしいですね。それから、一週間後ぐらいには、いまここで使っておるあの説教台をね、あ、そのなんかその、その晩に注文されたらしいですね。
あのそして、それが出来上がったのを自転車に乗せて、そしてあんな風ですから、乗せられません。もうこんなになっとるです。だからずっと歩いて押して、あの、見えた。
それが私と高山のお父さんが二度目の椛目で出会ったことであり、田主丸で会ったのが一番初めでした。
私は今日、御霊様にご挨拶させて頂きましたらね、あの灘にタモンという酒がありますでしょう。多く聞くという、多聞というあのこのくらいの酒の缶詰があります。それをお三宝一台、もううず高くこう盛り合わせてあるのを頂いたんですけれども。
はあ、お父さんがあんなにも、それこそお酒の中にひたっとらんほどに好きな方だったから、神様がやっぱりおかげ下さるんだろうかと私は思わせて頂いたんですけれども、その多聞ということがね、結局、聴聞するということ、御許しを頂くということによって、自分の心が開ける。心が開けるということは素晴らしいことですよ。
ですから、あの合楽に御神縁を頂いておかげを頂いて、ただそのときだけの有り難さといったようなもんじゃなくて、聴聞してほんとの天地の道理が、どんなものか、天地の御恩徳というもの中に生かされておるということがどういう有難いことかということが分る時に、私どもの心の中に限りない信心の喜びというものが、開けてくるわけ。
私はそれを今日ほど実感したことなかったんですけれども、今日、朝の御祈念終わってひと切りつきましたら、あの永瀬君、いまここで修業しとります、総代の息子ですけれども、永瀬君とあの、栄四郎と二人で出て来ましてから、昨日はその黄楊会がここであっとるんです。で黄楊会のいわゆる、青年会の若い方たちばっかりのグループですけれども、十五名か集まって、そして発心に花見に行ってるです。
そしてちょっとした接触事故を起こして、向こうの方の人がここに見えられて、あの、その、自動車の修繕、それからいろんな費用をやらを入れると、ちょうど二十万円余りかかるらしいから、それを出してくれとこう言われておった。
もちろんこちらの車もそれ相当にそでとるでしょうから、やっぱりそれが又十万かかるなら三十万かかることになります。
ところが私は今日は、そのことを聞かせて頂いて、ま、普通ならば責任者は昨日誰だったかとこう言いたいような感じがするんですけれどもね、何かそれが、ほんとに、あの、何て言うでしょうかね。有り難いなーという気がしたんです。
も、三十万円て言うと、合楽教会が三十万ちゅうと、百円づつお供えする方が三千人ここに集まらにゃなりませんからね。そげんなろうが、ね、例えていうならそげんなりますよ。百円づつお供えする人が三千人のお届がなからなきゃ、三十万、ま、いうなら、ここにとっては大変な大金なんですけれども、それが有り難く受けられたということは、いわゆる聴聞させて頂いた、御理解を頂いて心が開けておるからだと思うです。
というのが、昨夜が福岡の高橋さんところの謝恩祭でございましたから、あちらに参りましてから、頂きましたことは、私があの、ご神前に座らせて、お神様がもう見事にこうお祭りした、霊神様と、その中に、あの、大黒様が奉祭してある、その私が、ご心眼に頂くのがね、大黒様なんですけれど、ご心眼に頂くのは、その大黒様がね、あの、高橋さんがはめておられる、近眼ですかね、あの人、その近眼のめがねをはめておるられるんです、大黒様が、ほう、面白いこと頂くなーとおもうてね、結局、いうならば、近視眼的な見方というかね、物の、ほんな目の前、目の前のことしか分らない。これが大黒様といや、私のことだから、ま、私がたいてい悟りを開いたとか、おかげを頂いたとか言ってるけれども、まだまだ、近視眼的な見方をしておると神様が言うておられるのであろうとも思うた。同時に又、高橋さんでもあろうかとも思うて、私は御まつりを仕え終ったんです。
それからまた、霊神様へご挨拶させて頂きましたら、今度は霊神様がもう、いわゆる高橋家の御霊様たちでしょうね。沢山あの御霊様たちがね、これはそういう現実といったようなものがあるはずはありませんけれども、いわゆるあの聴聞、御理解を下さるわけです。ね、大黒様がメガネかけてござるとか、御霊様がメガネかけてござるというようなことがあるはずはないのですけれども、その御霊様たちがもう、全部その眼がねかけておられるわけです。
ね、そこで、なるほどこれは私を始め、高橋さんをはじめ、そしてここに集まっておるその、昨日あそこに沢山のご信者が集まって飲む、それこそ、もうそれこそ、あの人の性格通りの、もうそれこそきちっとした今朝から、あの、お届お礼に出て見えてから、もうきちっとして、何からかにまできちっとしたことでしたが、もう座席座布団まできちっとしたこつでした。で最後に、玉ぐしが二本余ったと思いよったら、あのお父さんがちょっと遅れとられたから、お父さんと親戚の方が後から見えて、ちょうどそのたまぐしもきっちりだったと。ま、結局あんたの信心だよて言うてま、今朝から言ったことですけれども、もうほんとにあの、神様がこのお祭りを受けて下さったなというような感じのお祭りでしたけれど、そこにお参りし合わせておるものすべてが、実を言うたらもう、なら、あの今の、に住む人間のすべてがね、この目先目先のことに終始しておるということだと思いました。
物事というものを近視眼的にみるわけです。
もうとにかくなら、高橋さんの御霊様なんか沢山の御霊様たちが、もう一生を終られて御霊の世界に入っておられる方達がです、いうならば生前、ただただ立身出世がしたい、お金が儲かりたい、そんためには、とてもどげな悪辣なことでもしかねないというような人達も中にはあったかも知れん。それこそ人の茶碗叩き落としてからでも、儲かるためにはといったような人達があったかも知れん。
それは、目先目先のことを考えるからだと。
信心させて頂いて段々分らして頂くことは、それが段々遠大なことが分ってくる。
先の先のことが分ってくる。一番ぎりぎりの信心の眼目というのは、私どもが魂の世界に入らせて頂いて、魂の世界での言うならば、お道の流儀で言うならば、安心の御霊喜びの御霊としての、おかげが頂かせて頂くために、この世に私どもは生を受けたんだということなんです。
いまちょうど綾部さんがお参りしらしておられるから、ですけれども、私と綾部さんが、あの信者控室で信心の四方山話をしておる時に、綾部さん、とにかく私どんがこの世にね、生まれてきたということは、この世には魂を清めに来とるとばいて、もうこの世で清めとかなければ、あの世でまた、また難儀せんならん、またこの苦しい世の中に出て来んならん、それこそ、仏教的に言う虫に生まれ変わったり、馬に生まれ変わったり、ネズミや猫にまで生まれ変わってくるという話じゃ、こりゃまあ話だけれどね、そういうことにでもならんなら、大変なこと、本気で魂はこの世では清めに来とるとだから、というた途端にあの、それこそあの、あん小さい部屋ですから、ね、信者控え、それがバーンとこうはじきよるようなおいさみがあったです。
確かに人間はこの世にね、生を受けたということは、儲けたじきったり、楽をしに来たってもなからなければね、ただ、立身出世をしにきったでもなんでもないて。
問題は、そのいろいろな様々なことを通して、本気で魂を清めに来たんだという、しかも仏教的に言うなら、何千年かかって、ようやくこの世に生まれ合わせたか分ら無いほどしの、難しいこと。
私が今日頂きます三千年に一度咲くという桃の花の春に咲きそめたということはね、合楽はそういう、私は、何というかね、意義を持った教会だと思うです。
ほんとに合楽に御神縁を頂いておったということが有り難いなーと、高山のお父さんでも、たとえば初めに、私と出会った、そして一晩ゆっくりお話を頂いて、これは椛目の先生という人はただの人じゃないぞと、ま例えていうならね、とてもこげなお話は、普通で聞ける話じゃないと聞いた時に、これはとても、あの、お説教台をもうお供えしなければおられなかった、やはり衝動があったんじゃないでしょうか。
そういうようなことが、例えて言うと、私は一番今日有難いと思ったことは、あの、四月の十日のお国替えということ。これは金光教で言うなら、天地金乃神様の御大祭ですよね。十月十日は教祖様の言うならお国替えであると同時に、教祖様が生前から、ご自分をお祭りになったのが、十月十日。四月十日というのは、天地金乃神様の、のお祭り日ということです。
もう自然にいかに恵まれておられたかということです。
ね、たとえば、節句、女のお節句のことを桃の節句と言います。
それはちょううど桃の花の咲く時期だから、だから、いまの新暦で参りますと三月三日ではまだ早すぎる。そこでこの辺は、最近では日と月遅れの今日が桃の節句になる。
ね、なぜ桃の節句かと、桃の花の時期に会いそめるからです。
だから桃の節句とこういうわけです。というようにです、素晴らしいタイミングというかね、お父さんがなるほど、なら、総代の御用まで頂いた。というてなら、あの大した信心が出けたと一つも思われなかった。けれどもま、夫婦で総代をしたちゅうのは、まだ合楽始ってあなた方が始めてだろうと思うんですけえれど、あの、なら、これでけ沢山の信者がおる中にですよ、どうして高山の家だけ夫婦が総代にならなならんかですたい。
はあ、どんどんお供えするけん、どんどんお参りが熱心にでけるけんということじゃなかったと思うんです。
ね、そこには何かがあったんです。それはまあ、私どもは分らない世界のことですけれども、その分らない世界のことが尊い、分からない世界のことが少しづつ分ってくるということが、信心だということ。
信心のぎりぎりの眼目というのがです、いうなら目先目先のことではなくて、いうならばこの世だけのことではなくてあの世のことまでも、見通しがでけるようになる時に、こりゃ本気で魂を清めておかなければならないなーということなんです。
ね、いわば遠大なことが分るということは、私ども魂の世界に入らせて頂いて、いうなら魂の世界に入ればもう、第一ね、見る楽しみの幸せもなからなければ、味合う、どんなにお父さんがお酒が好きじゃったからというて、お酒のお供えしたところで、もう口で味合うという感覚はないのです。
ね、肌の感触の、なら按摩をしてやったからというて、その喜ぶということもないです。ね、聞く楽しみも無いです。ね、味合う楽しみも、みる楽しみも、いうなら五感のすべてが、もうこの世にあるときだけのことであって、魂だけの世界にあるのです。
心だけの世界、いえ、だからそれをひっくるめて、ま、私どもは六感というわけだけれども、その私どもにはその六感が揃うておるためにです、ただ良い家に住まったり、良い音楽を聞いたり、良いものを食べたり、良いことを聞いたりするだけで、もう私は幸せとこういっとるけれども、それではない。心が助からなければ、人間の幸せというものはあり得ない。そこで、なら今朝から頂きますように、大きな信心をせよ、大きな信心をして大きなおかげを頂いてくれ、しかも、一心と定めて、大きな信心が良い、ね、迷い信心ではいかん、一心と定めいと、というような今朝の御理解を頂いてです、その神様が大きなおかげを頂くためには大きな受けものを作らなければならんぞと、よう説いて下さる。
だから、この世でね、大きな信心をさしてもらい大きなおかげも受けられるような心の状態を開かせて頂くということは、実を言うたら、そのもうひとつ向こうにあるあの世のことまでも分らせたいというひとつの手掛かりなんだ。ね、だから、私どもの心の中に、こんな信心の喜びが湧いてくる、その喜びにこのようなおかげが限りなく受けられるということが段々分って行く時に、なら、この喜びだけは、あの世に持っていけれるんだ、ね、信心の徳というのは、あの世ににも持って行けこの世にも残しておけると言われる。ね、そのこの世にも残しておける、あの世にも持っていけれることのために、私どもは信心さしてもらう、徳を受けとかんならんということになって、もし、なら、ここに億万の金を積まにゃ、お徳が受けられる、あの世で、ま、仏教的に言うなら極楽に行けるということであったら、もうそれこそ億万の金でももっと積むでしょう。こんな修行したならば、こんな働きをしたならば魂が清まるんだと聞かせて頂いたら、どういう手立てを持ってしてでも、その心の清まることに本気になるだろうけれども、そうだと教えて頂きながら、中々目先のことに幻惑されるから、魂を清めることではなくて、目先のおかげおかげのことばかりを思う。または願う、ね、今日私が、その向こうの対向車の方に払わんならんのが二十万円余りだ、まだ多いかも分らない。まだ清算書を出すから、ということだったそうです。
そんならこちらの車の方が十万、三十万払わんならん。ま、合楽教会にとっては大金だけれども、それを聞かせて頂いて有難いということは、どういうことかというとね、いうならば、向こうの向こうのことまでが分るからです。
これがどういう神様の御演出か分らん。神様のどういう御都合か分らん。しかも御取り次を頂いて、発心に、ま、花見に行ったことであろうから、お取次ぎを頂いて起きたことだから、無駄なことがあるはずがなし、よし、お取次ぎを頂かずして行っておったにしても、今日の私の心の中には、もうこれは神様の御都合には違いない、ま、それで、十五名の若い青年の方達が、ま、いろんなことが分らして頂いたら、ま三十万ぐらいな金は、も、これこそ安いもんだというような気がしきりにするんです。責めるどころじゃない。これは向こうの向こうが、誰よりも私が分るから、それを思えるんです。
ね、お互いがね、目先目先の近視眼的なことで、はあ、今日のお祭りはあがしこ、も、ずいぶん金が掛っただろうと、そう思う人があるかもしれません。やっぱり、けれどもね、それによって御霊が喜ぶなら、それによって私どもが徳を受けられるとするならばです、もうこげな安いことないということになるです。
ね、天地乃親神様の特別の自然の働きの中に、んならば、四月十日というような尊い日におかげを頂いて、生前も自分がしたい放題のことをなさり、ま、ある意味では飲みたい放題は飲んで行かれたんですけれど、なら、あの世で一番御霊様が喜ばれ求めておられるのは、やはり今日私が頂いた、多聞お酒の缶詰ではなかろうかと思うのです。
ね、なら、やっぱ死んだっちゃ、お酒飲みござるばいのという意味じゃなくて、もちろん有り難き、勿体なき畏れ多きということ、同時に、多聞、多くのいうならば、ま、もう、ね、生身を持っておる時には、お話も言うならば、ろくろく聞かなかった。たとえて言うと、ね、それは五感があるからです。けども魂の世界に入ったらもう魂だけですから、何かの手掛かりを持って、魂がより幸せになろう、より幸せになろうと一生懸命努めておるです。
だからここに必要なのは、多くの、いうならば、聴聞さして頂くということです。
これはなら遺族の者が、み教えを頂いて有難いというその心を御霊様へ向けること以外にないです。ね、そういう意味で私は今日のお祭りを御霊様が受けて下さった、そういうふうに受けて下さったと思うんですけれども、まず第一にほんとに合楽に御縁を頂いて、こういう手掛かりを作っておったことを、魂の世界にある御霊様は一番喜ばれたじゃなかろうかとこう思います。
なら、私どももです、やはり、なら、この世で、それこそ三千年に一度しか咲かんというほどしの、桃の花の咲く世代にこうして私どもが合楽に御神縁を頂いておったということを、ほんとに有難いと思うことはおかげが頂かれるから有難いのではなくて、そういう近視眼的な生き方からです、いうなら目先、目先のことにとらわれずに、先の先の先のことまでも思うて、本気でこれは清めさしてもらわんやならん、本気で魂を磨かなければならないといったようなことを悟り分らして頂くことのために有難い、金光様の御信心を頂いて、有難いというものを頂かなかったら、金光様の信心を頂いておる値打ちはもうさらさらない。何が有り難いかというと、本気で魂を清めることの手立てを日々頂かせて頂けるということが、有難いということになるのですよね。
今日はあのてる子さんでけなかった、残念、それこそ桃の花の傍におってから、ね、それこそもう、あのみち子さんなんかはこうやって今日のお祭りを頂くためにわざわざね、あの、何日も遅れてお祭りを頂こうとするもの、でないものの開きというものをほんとに感じます。
もうあの、有難い有難いの一念で素直におかげを頂いていくもの、反対に反対にそれ取って行くもの、も、ここにね、あの人間の幸福は定まってくるです。
しかもそれが、ならあの世にまでも続くということになったら、これは大変なことなんですからね、本気で一つ沢山のそれこそ多聞じゃないけれども、聴聞させてもらう、そして心を開かせてもらう、そして、そういう信心生活に入らせて頂く、という時に初めて信心を頂いておった喜びというものが頂ける。金光様の信心にそこまでのあの、喜びを頂かなければ、ただおかげで病気が治りました、おかげでこんなことでこんなお繰り合わせを頂きました、というようなおかげの、もひとつ向こうのおかげに、私どもは目指させて頂くおかげを頂きたいと思うね。今日はほんとにおかげを頂きました。有難うございました。